子どもに訪れる有事は、ほとんどが「個人的有事」

教育関係以外の職種の人とよく話をする。

教育は、誰もが経験してきたことなので、それを仕事にしてようとしていまいと、
誰もが話題にすることがあるし、一家言ある人が多い。

そうやって、教育の話をしていると、 「有事」を想定するか「平時」を想定するかで、
話が大きくずれることがある。
私は、教育の話に限らず、「有事」を前提としてものを考えることが多いので、
「平時」を基本に想定するとは話がずれることが多い。

そんな時、「平時」を基本とするとは、どういうことだろうと、ふと考える。
生きているうちに「死」をあまり考えないように、
重要なことでも無視できるものは無視しようと考えるのだろうか。
5月の末に、川崎でスクールバスを待つ児童に起こった悲惨な事件と、
そのすぐ後に、自分の息子を刺殺した元農水事務次官の事件は、
どちらも、長期の「引きこもり」が問題とされたが、
引きこもるということは、当人たちにとっての「有事」だったはずだ。

長期間ずっと引きこもっている人にしてみたら、
それはもう「平時」とも言えるかもしれないが、
引きこもり始めた頃は、当人もその親も、「有事」だと感じただろう。

普通に人生を歩いていた人が、何かのきっかけで躓いて、
家から出られなくなる。
それまで、学校や会社に行くことが普通だった人たちにとって、
それはとんでもない「有事」で、予想だにしない出来事。
しかし、予想だにしないことが起きるのが人生であり、
「見通しのたたない時代」と言われる現代では、
思ってもみないことに遭遇する可能性が、十分にある。

そんな、先の見えない時代とか、答えのない時代などと言われている時に、
大人が、「平時」を基本に考えて、よいものだろうかと考え込む。

しかしながら、 「有事」とはたまにしか訪れないから「有事」なのであり、
ほとんどの時期は、「平時」である。
また、社会の中で、「有事」の渦中にいる人の割合は、
「平時」の中で生きている人の割合に比べたら、微々たるものだ。
だから、「平時」を基本として考えることは、 効率的には悪いことではない。

ただ、「平時」の裏にはつねに「有事」がくっついていて、
それをわかった上で「平時」をやるのと、 そうでないのでは大きく違う。
倒産するリスクを考えずに会社を経営する社長はいないし、
死ぬ可能性を頭に入れずに、人の体にメスを入れる医者もいない。

可能性の一番極端なケースに「有事」があり、 責任ある立場にいる人たちは、
その「万が一」を頭に入れつつ、「有事」に備える。
教育において「有事」を基本に考えるということは、
子どもが、平坦で安全な道路の上を歩くことを前提にするのではなく、
ボコボコした、道ともいえないような道を歩くことを前提とすること。
その上で、子どもたちが落とし穴に落ちたり、石に躓いたりしたとしても、
自力で起き上がれるだけの知恵と気力を授けておくということだ。

引きこもりも、うつ病も、拒食症も、いじめも、リストカットも、
当人にとってはすべて「有事」だが、
テレビや新聞や、会社のオフィスや学校のクラスでは、
それらの「有事」が話題になることはほとんどない。

「有事」は常にマイナーな出来事で、
日常(=平時)にいる人たちは、「有事」を相手にしない。
だから「有事」に陥った時、 当事者は、
ほとんど自力でそこから脱出することになる。
周りに十分な理解とサポートがないことを前提に、
誰に助けを求め、どうやって「有事」を切り抜けるかを
パニックに陥らずに、考えなければならない。

戦争や災害など、社会全体が「有事」に陥っている場合なら
みんなで「有事」を切り抜けることもできるが、
子どもがこれから陥る「有事」は、 そのほとんどが「個人的な有事」だ。
「個人的な有事」に、世間はかまってくれない。
だからこそ、子どもに携わる者は、
彼らが陥る「万が一」の「有事」を想定して、
「有事」の際に必要なことを、 基本として教えておくべきだと思う。